人生サバイバル記

生きるのがつらい人の日記?ジャーナル?

7日目 8

とりあえず、今の所記録会が終わった。しばらくこれから心身ともに疲れるイベントは無いだろう。1週間ぐらい。今は例の喫茶店でまた脳内で思考を掬い出す作業をしている。

 

「グランデ」は喫茶店で注文出来るドリンクサイズのうちいちばん大きいもののことらしい。僕はアイス・ドリップ・コーヒーのグランデサイズをひとつ注文した。家で作ればタダで飲めるブラック・コーヒーに450円もかけるのは些か気乗りしなかったが、問題はそこでは無い。大事なのは喫茶店という場所であることだ。この場所は何度も来たことがあるということもあるかもしれないが、店でかかっているジャズ調の音楽が僕の心を落ち着かせてくれる。今日頼んだものは大きいサイズと勘違いしていたトールサイズよりもさらに大きいので、店に長居する罪悪感は前よりかは薄い。今日は比較的店内が空いていることもあるが。

 

結論から言えば、またダメだった。というより、どんどん事態が悪化していっている気がする。

 

ブログにこの日記を転写しているため説明していなかったが、僕は陸上競技部に所属している高校3年生だ。専門は長距離、主に5000mである。専門、という言葉を使うことを許可される程の実力は全くないが。ベスト記録は17分35秒。1年も練習すれば誰だって到達できる数値だ。僕が2年生になってから17分切り、16分台を狙い始め、ある壁にぶつかった。同界隈ではいわゆる「17分切りの壁」といわれる、恐く初心者が3番目くらいにぶつかるであろう壁だ。といっても、ある程度自己管理と努力ができる人なら簡単に登り切れる壁だが、僕はその壁を現在ですら登れていない。
何回挑戦しても達成できないその壁は、僕から見たらそれは刑務所にあるような、冷たいコンクリートの壁と同義だった。

 

初めは、2年生のすぐの頃はその壁が刑務所のそれに見えるなんてことは全くなく、ただ跨ぐだけでは通れなくなってきた、強く飛び跳ねて、縁を掴めば登り切れそうな壁だと思っていた。2年の僕は飛び跳ねた。頭を地面に打ち付けたような結果だった。それからは説明の通りである。僕の中にある失敗の恐怖心と諦観的感情がこの壁をはるか上に引き伸ばしたのだ。

 

僕には上に行かなくては行けない義務がある。仮にも長距離ブロックのリーダーを任されている僕がグループを引っ張る立場にあることは説明する必要も無いことだが、最近はチームはおろか、自分自身の「陸上」すらつらくなってきた。精神を病んでしばらく休みをとってから、さあ復活だ、とも行けるはずもなく(その分だいぶ遅れをとった状態から仲間との差を縮めるだけで精一杯である)、ひたすらに失敗を繰り返す。その姿は、さながら2、3秒空へ羽ばたいては直ぐに地に打ち付けられる雛鳥も同然だった。

 

年齢と責任の話は前にしただろうか。もし仮に、僕が必死になって目標を達成できたとしても、本来それは通過点であったのであって、今度はまた遠く離れた次の目標が出現する。陸上を引退したとしても今度は大学受験だ。それが終わったら今度は就職。さらに月日が経てば部下の指導。社会では常に「責任」が付きまとい、それは歳をとる度に、自分の実力と関係なく大きさが肥大していく。
あまつさえ部活もまともにこなせない僕に受験ができるのか?アルバイトは?就職は?

 

この時期(3年生)になると、部活でも、勉強でも、努力して大成したものが現れ始める。まだ手の届く位置にいた彼は、いつの間にか天の上まで登ってしまった。最も、その本人においては自分が上にいったなんてつもりは全くなく、向上の精神がより大きくなっていることが殆どだが。

 

成功がスキーでいうジャンプ台だとすれば、失敗は雪山の雪に潜んでいる樹根だと思う。
成功はその人自身を大きく加速させるが、失敗は人の勢いを止める。加速しても大丈夫なフォームが自然と身につく。きちんとした安全確認とスキーフォームさえ身についていれば、充分に加速した者は多少の木の根に当たってもそのスピードを落とすことなく次のジャンプを成功させる。まだ加速もままならないまま木の根にボードをぶつけた者は、体勢の不安定なまま次のジャンプ台に乗り込まなくてはいけない。その付近に以前よりさらに大きい樹根があったとしても。

 

 

 

書いていて面白くなくなってきたので話題を転換することにする。
記録会の帰路でモノレールに乗ったのだが、あれば良かった。都内のビルの建ち並ぶ近未来的な景色を大きい窓で眺めることができる。座席から見てレールも路線図も鬱陶しい金属のドアも見えない、ただ右から左に流れていく景色だけを映したその窓は、僕の心を強く興奮させた。あれは良い。何も思い悩むことなく、ただ過ぎ去っていく美麗な景色を座って見るだけの時間は、僕にずっとこのままでいい、と思わせていた。

 

 

僕が村上春樹作品を好むのは諦観した雰囲気が僕自身と共振するからだろうか。ここの店で先日読み始めた『海辺のカフカ』を、僕はまだ読み終えていない。自死を強く望む僕だが、これを読み終えるまではまだ、死ねないかもしれない。まだ死ぬことに勿体なさを感じている内は。

 

2日目 5

 

やはり将来のことを考えると憂鬱だ。近くの大会のこと、行事のこと、部活を引退した後の受験勉強のこと、成人すること、将来僕のような頓痴気でも就職が必要不可欠なこと、、、追われている責任から逃れるのは不可能であることを知った。年齢を重ねる、ということは背負っていく責任の規模が増えていくことを指すのかもしれない。

学校の現代文の授業で「恐怖とは何か」といったテーマの授業があった。確か、自分の攻撃性を他人へと無意識に投影する人は「自我」が狭い、幼児的な自己愛の肥大化した人間であるといった内容だった気がする。
流石にそのような言い方をぶつけられると些か不満ではあるが、なるほどその通りであると、同調は後から着いてきた。「自分の陰口を言われている気がする、いや言われているに違いない、、」といった被害妄想は自己満足と他人批判精神の権化でしかないためだ。僕は我々自身がそうすることで、悪者を作ることで自分をいつでもヒロインにできることを知っている。幾度となくそのような意地汚い虚像、幻覚を視てきた僕には深く刺さるものがあった。

眠くなってきたので今日やるべきことを全て放棄して寝ることにした。海辺のカフカは、まだ読み終わってない。少なくともこれを読み終えるまでは死ねないかもな。

一日目 8

自殺未遂(といっても飛び降りては無いけど)をした日から、日に日に「あの時死んでおけばよかった」といった存在否定の感情が高まっていることを痛感している。目に見えた結末を回避するためにはまず一日だけでも生き延びることが大事、と、どこかの団体が言っていた、気がする。だから、生き延びた証拠と明日生きるための手掛かりを探るために、ジャーナル(?)を残すことにする。

 

僕は未成年であるが為に個人で診断が出来ないため断定となるが、発達障害(どちらかと言うとADHD)かもしれない僕は幾度となく「日記」を継続してきて、そして近いうちにそれを諦めることを繰り返してきた。当然、「はてなブログ」もその内の一つに当てはまる。何故継続出来ないのか。目的がなかったからだ。
これには明確な意義、生き残るという大義が存在している。まずはこれを続けることが僕が生きる上での「ステージ1」であると解釈する。

これをやるにあたってルールを定めることにする。
・毎日続けなくてもいい。
・字数の制限は無し、多すぎても少なすぎてもいい。
・なるべく「解決策」を考える。

あくまで生き残るための手段のひとつであることをここに強調する。目標はまずは誕生日(6/5)まで継続することかな。以下、本題

 

予想はしていたけど、やはり今日のロードレース大会は最悪「寄り」の結果だった。最悪「寄り」だからなおの事救えない。今日はどうしようも無い日だった、これから頑張ろう。と、スパッと諦めることが出来ないからだ。といっても、結局辞める、といった、その後のことが怖いのかもしれない、というより恐くそうではあるのだと思う。これもまた一つの理由に過ぎないのであろう。結局いつまで経っても(これは顧問の口癖)、「怖い」ということに集約されるのだと思う。自分の実力と向き合うのが、嫌なことを言われるのが、失敗して変な顔をされるのが、只管に怖いのだ。

 

そういえば今日の正午辺りもそうだった。帰りの駅の改札近くで、僕は白い杖を持った人に遭遇した。その白杖をかつかつといわせた、ギターケースを背負ったサングラスのお兄さんが壁にぶつかりそうなことに気づいた時、僕は「何とか出来ないかな」と思ったと同時に、「でももしかしたら邪魔かもしれない」と瞬間的に思考した。幸いにもそのお兄さんは、僕が尻込みする間に、如何にも優しそうな中年女性に話しかけられ、彼の行先であるホームへ送られていった。僕は、彼らの背中を眺めることしか出来なかった。

 

お兄さんに自分を否定されるのが怖かったことは言うまでもないが、問題はそこでは無い。その怖さを自認しながら、何も出来なかったことだ。
怖いのは当然である。そもそもこの性格は恐らく普遍の物だと僕は知覚している。「お節介かな」と思う、という建前に打ち勝つことが、心理的自己防衛に道徳心で打ち勝つことが出来なかったのが大きい問題だ。

 

恐怖に打ち勝つにはどうすればいいのだろうか。
インターネットには、「根本原因を特定する」と書いてある。実際その通りだと思うが、僕の場合はそれを解決することは難しく思う。
往年に渡る自分の不注意、失敗によって群衆に白い目で見られてきたことがトラウマになっているのだ。
まずはそれの解決方法を考える必要がある、と思う。

 

デビッド・グランド博士が開発した、トラウマを克服する「ブレインスポッティング(bsp)」という方法があるらしい。数分間何も無いところをただ見続ける、というものらしい。ものは試しで帰宅後やってみようと思う。(忘れがちなので今行いたいが、今は喫茶店の中だ)

 

顧問は「問題は必ず解決できる、本題はその為の覚悟を決めれるかどうかだ」と今日言っていた。生憎僕は決める分の「覚悟」すら持ち合わせていないため、まずは「覚悟」を作るところから始めようと思う。そのためには、まずは僕の中のトラウマを緩和することが必要不可欠だ、と思う。

今日は疲れた。まずは今いる喫茶店で雨宿りがてら「海辺のカフカ」を完読して、一日を終えよう。